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『邪馬台(やまと)三国志』を検証してみよう
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水田稲作の開始(縄文晩期)から邪馬台国の興亡・大和朝廷成立にいたる歴史を物語化

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電子書籍『邪馬台三国志』〈ダイジェスト版〉の 新発売のお知らせ。
電子書籍『邪馬台三国志』〈ダイジェスト版〉の 新発売のお知らせ。 5月下旬に、電子書籍ストアから新発売しました。 好評です。  『邪馬台三国志』記紀と倭人伝の正しい解釈/邪馬台国盛衰記 B6版60p      http://p.booklog.jp/book/98221/read  http://search.books.rakuten.co.jp/bksearch/nm?sv=30&h=30&o=0&v=1&spv=2&s=8&e=0&cy=0&b=1&g=101&sitem=%B9%E2%C5%C4%B9%AF%CD%F8&x=68&y=11  ... ...続きを見る

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2015/05/30 13:28
電子書籍『邪馬台三国志』〈記紀と倭人伝の正しい解釈/邪馬台国盛衰記〉の 新発売のお知らせ。
4月8日に、電子書籍ストアから新発売しました。  『邪馬台三国志』記紀と倭人伝の正しい解釈/邪馬台国盛衰記 B6版124p  立ち読み20p  (文字が一回り大きくなりました) ...続きを見る

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2015/04/10 07:31
ホームページ『邪馬台三国志』に〈神武(磐余彦)と神功/海部氏系図〉など掲載
◆ホームページに新たに掲載しました。 〈三人の天孫/二人の火明〉2p 〈神武(磐余彦)と神功/海部氏系図〉5p ...続きを見る

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2015/03/13 20:06
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え153〈おわりに〉
D『古事記』に、「(神武天皇の)御陵は、畝傍山の北、白檮の尾の上にあり」とあるが果たしてそうだろうか。磐余地方の山の稜線に、四世紀初めに造られた日向式の柄鏡形前方後円墳が『日本書紀』の記述に沿った形で二陵も築かれたことは、以下の遺勅や言葉と無関係ではあるまい。 ★光武帝の遺勅、「朕は民に益するところが無かったので、葬送の品は瓦器を用い、金銀銅錫などで飾らぬようにせよ。墓も自然の山形を利用するに止め、墳丘を築いてはならぬ。できるかぎりの倹約を宗とせよ」 ★魏文王の定めた寿陵制度、「その昔、堯は... ...続きを見る

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2015/02/25 06:46
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え152〈皇祖皇宗の祭祀〉3
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え152〈皇祖皇宗の祭祀〉3 Bこの鳥見山から北へのびる尾根上には、四世紀初めに造られた日向型の柄鏡形前方後円墳が鎮座する。桜井茶臼山古墳と呼ばれるそれには、樹齢千年以上の巨木からなる木棺が安置されていて、その内外に二十六面の三角縁神獣鏡をはじめ、内行花文鏡・方格規矩鏡・画文帯神獣鏡・獣帯鏡など八○面以上の銅鏡、それに三種神器である曲玉・鉄剣、さらに王権を示す碧玉製の玉杖・玉葉が副えられていた。 その円墳上に土を盛った方形壇があって、その周りを底のない祭祀用壷が取り巻く。この古墳は帝王級副葬品が豊富にあったにもかかわらず、... ...続きを見る

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2015/02/24 06:47
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え151〈皇祖皇宗の祭祀〉2
Aこの儀式の拠りどころは五帝期の封禅や、成王を補佐した周公が后稷(周祖棄)を南郊に祀って天(農耕の天神)に配し、秋に新穀を奉った周礼、また文王を明堂に祀って皇祖に配した周礼、さらに光武帝が漢朝を再興した際の封禅や郊祭にあるのは明白だ。 ☆周公は幼い成王を助けて政に就くと、后稷を南郊に祀って天に配し、文王を明堂に祀って上帝に配した。それ以前に、火徳をそなえた文王は赤い鳥が現れるという瑞祥によって、封禅の天命を受けたが泰山での封祭を行わず、武王も殷を破った二年後の天下が未だ安定しない時期に逝ってし... ...続きを見る

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2015/02/23 06:46
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え150〈皇祖皇宗の祭祀〉1
‥‥皇祖皇宗の祭祀→鳥見山北麓の桜井茶臼山古墳で封禅さながらに郊祭して皇天二神を天に配し、皇祖皇宗に奉る。 祭祀の式日→神武四年(三○四年)の春二月二十三日(桃の咲く頃) 儀式の拠りどころ→五帝期の封禅、周礼、光武帝による封禅や郊祭 @月日が流れて、ヒミコの墓(箸墓古墳)がバチ形の前方後円墳に様変わりすると、神武はそこに祭場を設けて、厳かな儀式に臨んだ。まず女王トヨの亡き骸をホケノ山古墳から掘り出して方墳のバチ形部に再葬した後、二重口縁壷や花なども供えながら女王トヨの冥福を祈った。 三○... ...続きを見る

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2015/02/22 06:39
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え149〈建国式と神武天皇の即位〉
‥‥建国式と神武天皇の即位→三〇一年(辛酉年)元旦 @年が明けた三〇一年(辛酉年)元旦、雅楽が厳かに流れて猿女君(天鈿女の子孫)らが神楽を舞い踊る中で、磐余彦は建国の儀と即位式に臨んだ。儀式が盛り上がったところで、彼は火火出見愛用の礼衣を纏った姿で現れ出て、神日本磐余彦火火出見と名のるや、神璽の鏡剣を捧げ持って大和朝廷の建国を声高らかに宣言した。これを祝福して、可美真手が中つ鏡・辺つ鏡など瑞宝十種を奉献し、ついで神楯を持った近衛兵を御前にずらりと並べて忠誠を誓った。斎部の天富も天璽の鏡剣を捧げ... ...続きを見る

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2015/02/21 06:49
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え148〈宗廟の創建〉
‥‥宗廟の地→伊勢の五十鈴川川上 B五つ目の仕事は、日神と高皇産霊を伊勢で祭祀することだ。彼は渡会宮(磯宮)のすぐ南に檜御柱を立て、その真上に祭殿を建立して天照御魂神(真経津鏡)を奉祭すると、天富(あめのとみ、太玉子孫の斎部)を宮司(みやづかさ)として檜御柱の許で厳粛な儀式をとり行った。その形は、日神が高皇産霊の再来を祈っているかのごとくに見えた。もちろん、従来の五十鈴宮での祭祀も、ひっそりとではあるが継続されていた。 ところで、ヒミコが伊勢二見の地で倭姫に託した例の、「豊受姫と豊受大神(豊... ...続きを見る

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2015/02/20 06:56
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え147〈皇天二神を称える御陵〉
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え147〈皇天二神を称える御陵〉 ‥‥皇天二神を称える御陵→磐余地方の鳥見山北麓に造営 箸墓→女王トヨ(豊鍬入姫)も合葬 @四つ目の仕事は、皇天をたたえて新たな御陵を築き、そこで日神と高皇産霊を皇祖皇宗としてお祭りすることだ。大和朝廷としてはヒミコの墓をそのまま残しておく理由などなかった。かと言って取り壊すこともできなかった。そこで彼は、ヒミコもヒミコの墓も最初から存在しなかったとして、こう決断した次第だ。 一、日神と高皇産霊のために、鳥見山麓に壮大な日向式山陵(柄鏡型前方後円墳)を築く。 一、ヒミコの墓の方形を継ぎ足し... ...続きを見る

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2015/02/19 06:59
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え146〈大和朝廷のはじまり〉2
A磐余彦の二つ目の仕事は、太子を一から決め直すことだった。彼は時間的な制約から独断する以外にないと悟ると、まず自分の身内を政権からはずし、都からも遠ざけた。そうすることで、厳正に対処する姿勢を示したのだ。即ち、磐余彦の長男は阿蘇神宮の神職に就き、兄の御毛入野は高千穂郷に戻って日神の祭祀に専念することになる。 【阿蘇神宮の縁起】、「神武天皇(磐余彦)の長男は、阿蘇草部の娘と結婚して阿蘇権現となる」 【高千穂町に残る伝説】、「御毛入野は高千穂に戻り、三田村姓を名のる」 磐余彦はこの手はずを整え... ...続きを見る

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2015/02/18 06:43
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え145〈大和朝廷のはじまり〉1
‥‥橿原宮の完成→四世紀初頭 皇天に二つの誓い→@辛酉年元旦に、大和朝廷の建国の儀と即位式を行う。 A倭を一家にまとめる、太子を決め直す、垂仁の神璽を後世に伝える、皇天二神の御陵を築き皇祖皇宗に奉る、あわせて宗廟を建てるなど、五つの仕事を成し遂げる。 大倭の地→大和と改名 神功皇子・気比大神・開化皇子・新羅王子・磐余彦の児→互いに名前を交換 饒速日末裔の物部氏→海幸彦の誓約遵守に加え、十握剣を押し付けられて朝廷の軍事筆頭職に就任 @橿原宮は着工から一年以上が過ぎて、漸くその形が整って... ...続きを見る

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2015/02/17 06:42
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え143〈日本武の北伐〉4
E任務を果たして帰途についた日本武は、碓氷峠を越えて甲斐(山梨県)や信濃(長野県)も鎮めて回った。尾張に戻った彼は真っ先に宮ス姫の家に駆けつけ、天鹿児山の霊前で結婚式を挙げたのだった。 月日がたって、彼は伊吹山になおも賊が隠れ潜むと聞くや、居ても立ってもいられなくなったのか、討ちとる決意を固めると同時に、妻に次の言葉と草薙剣を託して出かけた。 「私が留守の間、姫はこの剣で高皇産霊に武運を祈りながら、そのつど私を思い出しておくれ」 日本武は賊を討ち果たそうと伊吹山に登って行ったが、そこで硫黄... ...続きを見る

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2015/02/16 06:44
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え144〈黒塚古墳 〉2
‥‥出土品の状況や築造時期→日本武尊の事績・足跡・生存期と合致 @ところで、箸墓古墳真北(旧上之宮北)の上ツ道沿いには、例の黒塚古墳がある。前述したように、箸墓での南郊に続いて北郊の祭祀が黒塚古墳で行われた可能性が高い。また、ヒミコの祝いの八咫鏡(三角縁神獣鏡)とともに磐余彦の葬送用八咫鏡(三角縁神獣鏡)が埋められたのも、確かなところだ。これ以外に、黒塚古墳と日本武の接点がいくつかある。 一、三三面の三角縁神獣鏡と同じ鋳型で造られた鏡が宮崎から群馬にかけて五十八枚も出た。 宮崎1、福岡5、... ...続きを見る

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2015/02/15 06:47
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え143〈日本武の北伐〉4〜153〈おわりに〉の題目
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え143〈日本武の北伐〉4〜153〈おわりに〉の編集が完了しました。それぞれの題目と概要は、以下の通りです。 ...続きを見る

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2015/02/14 07:18
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え142〈日本武の北伐〉3
☆鹿島神宮が豊葦原中つ国を平定した武甕槌を祀ることは前述した。この神宮は同名のよしみなのか、大神武甕雷も合祀するらしい。これは、神宮に伝わる常陸帯神事からも見て取れる。 ☆常陸帯神事とは、帯端に男女の名を書いてつき合わせることで、結婚相手を占う神事だ。『鹿島志』はこの帯が神功皇后の腹帯に由来するという。 ☆神道が鹿を神聖視してきた歴史は、意外と古い。鹿島神宮の境内では、神鹿が飼われてきたし、奈良の春日大社も祭神の武甕槌命が鹿島から春日御蓋(みかさ)山に遷座する際、白鹿に乗ってやって来たとして... ...続きを見る

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2015/02/12 06:41
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え141〈日本武の北伐〉2
B数日後、伊勢入りした日本武は叔母の倭姫を訪ねた後、二人して伊勢太神の廟に参って武運と加護を祈っていた。この時の倭姫は六十歳そこそこだったろう。彼女は大日本家に養女入りした時は倭姫、ついで女王の座にある時は倭迹迹姫、女王を降りると再び倭姫という風に名前を使い分けた。 祈願を終えた日本武は目に涙しながら、ついつい倭姫に本音をもらしてしまった。 「叔母にお目にかかれるのは、これが最期かも知れません。父は休みも軍兵もろくに与えようともせず、東伐や北伐に行けと命じられた。今にして思えば、私を謀にかけ... ...続きを見る

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2015/02/11 06:40
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え140〈日本武の北伐〉1
‥‥日本武の北伐→陸奥で兵法極意「戦わずして勝つ」に挑戦。二九○年代末  現人神の子→天神(天照国照彦火明饒速日、三代垂仁)の御子 神→日本大物主大神(火明饒速日)とその御子  @磐余彦は太子を決めるに当たって、真っ先に景行を招いて訊ねた。 「このところ、東国では暴れ回る者どもが横行している。とりわけ、蝦夷たちは国境を侵して頻繁に人民をさらったとも聞く。この乱暴者どもを懐柔しつつ、火火出見との誓約(日高見勢との和睦)もきっちりと果たし、しかも日高見勢をそろって連れ帰るにはどうすればよいか... ...続きを見る

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2015/02/10 06:40
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え139〈橿原宮の造営〉
‥‥橿原宮の造営→三世紀末の着工 @二九九年三月、磐余彦は今に至った経緯を振り返りつつ、新都の造営を決断した。と同時に、政を進めるにあたっての方針や心構えについて、詔として衆知させることにした。 「日向を発ってこの方、皇祖天神(日神と高皇産霊)の威光に助けられて、この国を統一することができた。北と東の辺境には今も刃向かう徒がたむろしているが、西海から大倭にかけてはことごとく鎮まった。 そこで、山林を伐り開いて都と宮殿づくりに取りかかり、然る後に謹んで天下を治める位に就きたいと思う。今後は民... ...続きを見る

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2015/02/09 06:45
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え138〈祭殿取り壊し〉
‥‥祭殿取り壊し→磐余彦に逆らった罰。その証拠に、三輪氏や日本の末裔らが祀る大神神社・石上神宮は祭殿を有しない。 敗れた日本一派→東北に逃亡 @磐余彦は大倭一円を制圧すると、畿内に隠れ潜む残党に降伏を勧めて回る一方、刃向かう者に対しては力ずくで追い払った。と同時に、邪馬台国側の主要な祭殿をとり壊し、その再建も認めなかった。大神家についても元の三輪氏・太氏鴨族の二家に割った上で、三輪氏の先祖祭祀まで禁じた。こうしておけば、大乱を引き起こした三輪氏の祖霊が再び地上に降臨することはないし、天照大神... ...続きを見る

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2015/02/08 06:39
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え137〈黒塚古墳 〉1
‥‥黒塚古墳→箸墓の真北に築かれた故、この名がある(北の色〓黒) 祝いの八咫鏡(三角縁神獣鏡)・祝いの鉄刀出土→邪馬台国(日本朝)滅亡と同義 葬送用と祝いの八咫鏡(共に三角縁神獣鏡)・鉄刀の副葬→大和朝廷の葬送儀礼に発展 @ここで、例の黒塚古墳について考えたい。箸墓古墳と黒塚古墳は旧上之宮の真南と真北に位置している。五行説では、黒は北を意味するから、北郊と似た祭祀が黒塚古墳で行われた可能性が高い。   この儀式において、磐余彦側は葬送用の八咫鏡を副えて弔った。ついで邪馬台国側がヒミコから... ...続きを見る

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2015/02/07 06:48
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え136〈日本王朝の滅亡〉2
Bこの時の様子は、『日本書紀』に詳しい。これに少々書き添えて紹介したい。 ★長スネ彦は、磐余彦に言上した。 「昔、天神の御子の饒速日が天降って来て私の妹を娶り、私もこの人に仕えました。あなたも天神の御子と申されますが、そちらの方こそ偽者でしょう」 「天神の御子は多い。主人が天神の御子なら、その印しがあるはずだ。それを示しなさい」 と磐余彦が命じると、長スネ彦は饒速日の持つ天羽羽矢を示した。磐余彦はそれを見て、 「偽りではない。これは天鹿児山の所持した天璽で、火天神の御子それぞれに与えら... ...続きを見る

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2015/02/06 06:59
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え135〈日本王朝の滅亡〉1
‥‥饒速日の降伏→日本朝滅亡と同義。二九八年頃 金色の鵄の祥瑞→高皇産霊に成り代わって郊祭できる資格を天から拝命 天津瑞の天羽羽矢→火天神・天鹿児山(天羽羽)の御子の印し @その後、神功は武甕雷軍・騎馬軍団を率いて紀ノ川沿いの山道を駆けのぼり、纒向の都に向かって快進撃していた。夫の訃報を聞きつけたヒミコがこの道を駆け抜けた話は、子供でさえ知っていた。神功はそのヒミコの姿をそっくり真似ていた。敵方は白い喪服姿が神功だと気づきはしても、ヒミコに出会ったごとくひれ伏し、その後は姿をくらますこと... ...続きを見る

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2015/02/05 06:43
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え134〈日前宮と熊野三山〉
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え134〈日前宮と熊野三山〉 ◇日前宮(和歌山市) ★素戔嗚と五十猛が祀られていた秋月の地には、日前神宮と国懸神宮が隣接して鎮座する。二つ合わせて、日前宮(にちぜんぐう)とも名草宮とも呼ばれる。 ★日前神宮は日前(ひのまえ)大神を祭って日の像の鏡を御神体に、国懸神宮は国懸大神を祭って、日矛鏡を御神体にすると伝わる。前述したように、日前・国懸両宮とも伊勢神宮と同じく、位階を受けない特別の神宮、つまり伊勢神宮に準じる扱いを受けてきた。 【日前神宮の古記録】、「日矛・日前鏡の神宝は神武東征の折、再び天道根に託された。神武軍が... ...続きを見る

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2015/02/04 07:12
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え133〈日隈・日前・熊野家の先祖祭祀復興〉2
E伊奘諾は、表向きには素戔嗚に向かって、「高千穂宮に居ってはならぬ。根の堅洲国なり何なり、とっとと出て行け」と詔して追放したが、心の底では、素戔嗚がオロチの天照大神親子を討ち果たしてくれるよう念じていた。 日神も素戔嗚に対して、「高千穂宮に居てはならぬ」と追放を申し渡す裏で、一刻も早い豊葦原中つ国の建て直しや熊野家再興を切望するあまり、熊野櫛御気野の名と一緒に日矛・日の像の鏡(最初に鋳込まれた八咫鏡)を彼に委ねた。その際、日矛や日の像の鏡に対して、熊野家再興を密に祈願していた。 Fその後、素... ...続きを見る

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2015/02/03 07:19
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え132〈日隈・日前・熊野家の先祖祭祀復興〉1
◇日隈・日前・熊野家の先祖祭祀復興 二世紀後半から四世紀初頭にかけての歴史は、今風の歴史感覚では考えの及ばないところが多々あるものの、記紀の記述や東アジア史をたどって行くことで、そこそこは見えてくる。 かいつまんで言うと、一世紀前半に北九州に興った倭奴国王朝は、一七○年代になると、東の国が王朝を軽視したことで、日隈(熊野家、熊襲)の伊奘諾に東方統治の建て直しを下命した。 ところが一八○年代中頃、彼の強引な手法が災いして騒乱が多発し、果てには畿内の邪馬台国に天下を奪われてしまった。伊奘諾は一... ...続きを見る

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2015/02/02 07:25
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え132〈日隈・日前・熊野家の先祖祭祀復興〉1〜142の題目
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え〈〉〜〈〉の編集が完了しました。それぞれの題目と概要は、以下の通りです。 ...続きを見る

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2015/02/01 07:15
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え131〈日本に迫る〉
Eそれというのも、これまで高皇産霊の霊光を期待して戦ってきたが、厳(水)一門に対しては効き目が今一つだったからだ。そもそも高皇産霊と語るには、初代の高皇産霊が豊葦原中つ国王朝に担ぎ出された際の儀礼を踏襲しておくのが古来の決まりだった。 その手間を省いたことで霊光がないと悟った彼は、今度こそ高皇産霊に成り代わって兵法極意の下で日本を倒し、然る後に郊祭して日神夫妻を皇祖皇宗としてお祀りしたいと強く念じていた。そのため、決戦を目前にしながら、ここまで足を運んできたのだ。 そのお告げがあったのか、彼... ...続きを見る

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2015/01/30 07:01
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え130〈熊野から北上〉2
B武角身と八咫烏らが東征軍の先頭に立って吉野川上流(川上村)にやって来ると、ヤナ漁を仕掛けている人らに出くわした。磐余彦はその男に向かって、 「私は天神の御子だ。この行列は十握剣を奉祭しながら都に向かっておるところだ。お前は誰か」 と誰何した。すると相手は、 「私は天照大神に仕えた者の子孫で、この地域を治める贄持(にえもつ)の子です」 と答えて十握剣にひれ伏すなり、帰順を申し出てきた。そこから少し行った所で、今度は天之尾羽張神一門と思しき尾飾りをつけた人が泉の脇から出てきた。彼も「お前は... ...続きを見る

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2015/01/29 06:39
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え129〈熊野から北上〉1
‥‥十握剣を奉って北上→高皇産霊・天照大神の行列と語りつつ、日本に進攻 三毛入野・稲飯・天香語山→伊勢・志摩をくまなく平定 尾飾りをつけた人→天之尾羽張神一門  土雲→土の神を崇める雲師(中つ国系の将兵) 日前鏡・日矛を再度秋月に奉納→日隈・日前の再興成就。つまり日前神宮の始まり @南海道の海沿いをことごとく制圧した東征軍は、二手に分かれて熊野山中に分け入り、熊らの残党を追尾して回った。一軍は那智から大雲取山・小雲取山を越え、そこから本宮を通って十津川村に出た。もう一軍は新宮から熊野川・... ...続きを見る

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2015/01/28 06:46
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え128〈熊野家の祭祀〉
‥‥神倉山の祭祀→熊野家再興を成就し、伊奘諾夫妻と熊野櫛御気野親子を祖霊として祭祀 那智大滝の下で天香語山が火天神、八咫烏が大穴持(天照大神)を祭祀→那智の火祭り @天香語山と八咫烏らが周辺に潜む熊ら残党を一掃すると、磐余彦は神倉山に再度登って十握剣を捧げ持ち、戦勝報告とともにお礼の言葉を申し述べていた。 「経津主や高皇産霊の霊光によって素戔嗚一門を討ち果たし、さらにオロチ退治の仇まで取ることができました。これより後は、十握剣を高皇産霊御魂として称えるとともに、熊野では伊奘諾夫妻と熊野櫛御... ...続きを見る

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2015/01/27 07:11
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え127〈熊野村の戦い〉2
C翌朝、夢からさめた天香語山は、手許に届いた十握剣を眺めている内に、なぜか恨みが込み上げて来て、これまで先祖に対して義理の欠き通しだったと思い知った。彼は先祖に深く詫びる気持で、 「わが先祖の天照大神と天鹿児山は、素戔嗚の手勢に踏みつぶされた。大己貴の日隅家も、素戔嗚・五十猛率いる熊らに乗っ取られた。わが先祖は素戔嗚一門に遭遇して以来、悲運の見舞われ通しだ。思い起こせば、先祖から託された私の責務は、その恨みを晴らすことにあった。今、その時がやって来たのだ」 と誓うや、直ちに八咫烏らを率いて敵... ...続きを見る

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2015/01/26 07:23
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え126〈熊野村の戦い〉1
‥‥熊の不意打ち→熊野でも兵法極意の達成に挑んだが、またも失敗 高倉下の熊退治→天香語山(天鹿児山襲名)が素戔嗚親子を祖霊と仰ぐ熊族を退治した実話。つまり八俣の大蛇退治の仇討ち 高倉下→天香語山 @その後に事態が急変した。事の次第を知った熊らが、磐余彦の仕打ちに怒ったのだ。熊らは口々に、 「先だっての磐余彦は降伏の礼に則り、素戔嗚御霊を返納する素振りまで見せて日矛を差し出した。と同時に、八咫鏡をヒミコの御霊のごとく奉納したが、日矛は既に豊受皇太神御魂にすり替わっていて、日前鏡もヒミコに突... ...続きを見る

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2015/01/25 07:01
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え125〈熊野上陸〉2
B時が経って、ヒミコの権力を継いだ饒速日は、 「融通の利かない熊と烏が大喧嘩をおっ始めると、互いに味方を募って相手を倒しにかかる。ほっておくと、日本王朝を根底から揺るがす事態になりかねない」 と憂慮して、両者の押え込みにかかった。そこで、彼が考えついた方策は、こうだった。 一、東海道都督の天香語山(かごやま、饒速日の児)が南海道と東山道の国境に割って入って、調停に当たる。 一、天香語山が熊の食いぶち米を一手に管理することで、喧嘩の根を断ち切る。 こうして、天香語山は熊野神邑に高倉(高床... ...続きを見る

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2015/01/24 06:41
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え124〈熊野上陸〉1
‥‥熊野神邑での熊と八咫烏の反目→南海道・東海道の所領争い 神邑の統治→熊から切り離して天香語山・八咫烏に移し、抱き込みを図る。 @暫くすると、大倭から繰り出してきた敵の大軍が和歌浦に駆けつけたが、そこはもぬけの殻だった。その頃、磐余彦の船団は潮岬沖を回って熊野村の西端、神邑(みわむら、那智)の聖地へ急いでいた。同じ頃、御坊に引き下がっていた神功軍・武甕雷軍・騎馬軍団は、陣中に日矛を高々と掲げながら、 「熊らが祖霊(日矛)を踏み倒してでも押し通るなら、熊野櫛御気野に代わって成敗してくれる」... ...続きを見る

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2015/01/23 07:22
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え123〈紀伊で日前祭祀のお膳立て〉
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え123〈紀伊で日前祭祀のお膳立て〉 ‥‥紀伊秋月に日前鏡・日矛を奉納→日隈・日前再興のお膳立て @河内湖を脱した東征軍は、大阪湾に出て南の茅渟海(ちぬのうみ、和泉沖)をひたすら南下した。その途中で、磐余彦は天道根(子孫)を紀伊秋月に走らせ、熊らに大事を伝えさせた。 「天神の御子が、日矛と日前鏡を奉納するため、秋月に立ち寄る。熊らはそこに立派な祭場を設けて、お迎えするように」 数日後、船団は男の水門(和歌山市)と呼ばれる和歌浦湊に着いた。当時、南海道の都があった秋月では、素戔嗚と大屋彦(五十猛)が熊野家祖霊として祀られていた。... ...続きを見る

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2015/01/22 06:52
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え122〈生駒の敗北〉2
Dそうこうする内に、大阪湾の南と北から幾筋もの狼煙が立ち上った。磐余彦と五瀬は、 「本軍も直ちに出陣する」との合図を送らせるとともに、陣払いを急がせた。その間、二人はここまで水先案内を勤めてきた椎根津彦の栄誉を称え、先祖に対しても戦勝を祈願していた。 御影(神戸市灘区)の浜辺から一斉に漕ぎ出した本軍は、難波の泊沖を通過して、河内湖東端の白肩津(東大阪市)に到った。そこは河内の日下(ひのもと)勢が本拠とした草香(くさか、日下)邑で、饒速日の降臨地だった。 磐余彦と五瀬は兵を上陸させて軍を整え... ...続きを見る

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2015/01/21 07:09
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え121〈生駒の敗北〉1
‥‥生駒上陸→大和川に沿って日本に進撃 生駒の戦い→兵法極意の達成に臨んだものの、大敗して南に転戦 @こうして、東征軍が六甲山麓に堅陣を構えると、摂津の三嶋鴨勢は態度を濁して日和見を決め込んだ。東征軍の行く手を邪魔しない素振りさえ見せていた。竹内宿禰軍はそれも警戒して灘浜から船団を繰り出し、一路、和歌浦を目指した。そこで熊らの寝返り工作にかかると、彼らは直ぐになびいてきた。 続いて神功軍が仲哀軍を従えながら、大阪湾を横切って難波に向かった。すると、仲哀の軍船が海上をぐるぐる回り出して、神功... ...続きを見る

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2015/01/20 06:53
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え121〈生駒の敗北〉〜131〈日本に迫る〉の題目
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え121〈生駒の敗北〉〜131〈日本に迫る〉の編集が完了しました。それぞれの題目と概要は、以下の通りです。 ...続きを見る

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2015/01/19 07:27
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え120〈播磨の制圧〉2
B同じ頃、難波住吉湊(大阪市)に布陣するカゴ坂王(仲哀皇子)が「玉砕覚悟で、東征軍を阻止しろ」という厳命の下に針間海道都督に抜擢され、弟の忍熊王(おしくまおう、東山道都督?)の軍勢ともども明石郡垂水郷に押し出してきた。 二王は、雑兵をかき集める方策をあれこれ巡らせてから、淡路島の漁師らに命じて垂水郷の高台に仲哀陵を築かせた。同時に、五色浜の玉石十数万個を漁船で運ばせ、これを方墳表面に敷きつめるという大義の下に、男どもを集めた。 それが完成したところで、彼らに武器を持たせて西の狩口(神戸市垂水... ...続きを見る

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2015/01/17 06:40
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え119〈播磨の制圧〉1
◇播磨の制圧 @吉備津彦軍が吉備中山に陣取って背後をがっちり固める中で、磐余彦本軍は、神功軍・出雲軍、新羅王子(天日槍末裔)の騎馬隊ともども播州平野になだれ込んで行った。すると、揖保川沿いに展開する彦狭嶋軍や伊和・小千軍が正面からぶつかってきた。双方はそこで死闘を繰り広げた。結果は、東征軍が勝利したものの、ここでも三角縁神獣鏡を伴った墓が数多築かれた。東播各地でも、東征軍の名だたる将兵が多数討ち死にしたらしい。 【備前車塚古墳】(岡山市)、全長四八bの前方後方墳で、東岡山駅北方の丘陵上にある... ...続きを見る

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2015/01/16 07:23
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え118〈吉備・出雲の征伐〉2
Dその残党は海を渡った讃岐に逃げ込み、女木島(高松市沖)を根城にして徹底抗戦を叫んでいた。吉備津彦の軍勢がこれを追って讃岐平野を進撃すると、讃岐の猿王、雉ケ谷の豪族、それに海戦と山岳戦に長ける犬島(岡山市)の犬飼氏が参軍してきた。 吉備津彦が彼らと共に高松に迫ると、女木島にこもる残党はいつの間にやら姿をくらましていた。 こうして磐余彦は、笠岡から児島湾に浮かぶ高島(岡山市)に仮宮を進めた。その島の磐座と呼ばれる巨石の上には、高島神社が鎮座して神武天皇を祀っている。 ついで磐余彦は岡山平野か... ...続きを見る

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2015/01/15 06:42
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え117〈吉備と出雲の征伐〉1
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え117〈吉備と出雲の征伐〉1 ‥‥吉備津彦・日本武→吉備平定 吉備津彦・讃岐の猿王・雉ケ谷の豪族・犬島の犬飼氏→四国平定 日本武・武甕雷・吉備津彦→出雲征伐 @磐余彦は周防灘の沿岸や島々を次々に落として安芸宮島に上陸すると、その北部に仮宮した。そこから安芸一円の攻略に取りかかったが、兵が不足して作戦が思うようにはかどらなかった。そうした折に、人質代わりの新羅王子が騎馬隊数千を連れてやってきた。王船には、貢物として数々の財宝が積み込まれていた。 磐余彦はこれを惜しげも無くばら撒いて敵の帰順を誘う一方、刃向かう者には矢の... ...続きを見る

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2015/01/14 06:41
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え116〈八幡(応神)誕生の秘話〉
‥‥八幡(応神)→宇美ではなく、石体宮で誕生(実の父は仲哀でなく、磐余彦)  @その後、神功は一足先に凱旋して、博多の那津(博多)に上陸した。そこから宇美(福岡県宇美町)に移って皇子を出産した。この皇子について、日本書紀は、 「神託を受けて宇美で誕生した神功皇子は、敦賀の気比大神と名を交換して応神に立った」とする。 だが、この記述は疑わしい。これと応神に関する伝承を照合すると、話がかみ合わないのだ。 『水鏡』は「応神は鹿児島神宮の石体宮で生まれた」と伝え、鹿児島神宮も古くから「応神は当地... ...続きを見る

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2015/01/13 06:42
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え115〈神功の新羅遠征〉2
Cそこから出航した神功は、加唐島(佐賀県)を過ぎた辺りから懐妊の腹帯を締め、続いて高千穂宮での日神同様、武者姿になって壱岐と対馬を目指した。 その後、王船は対馬の上県湊を出た直後から、射楯神(日矛)を帆柱に高々と掲げながら進んだ。すると、どの船もたちまち新羅湾に吸い込まれていった。将にそのとき、大きなる追風が起こり、津波が陸地を駆け上って行った。 新羅王は恐怖心に駆られたあまり、皆を集めて言った。 「建国以来、海水が陸地に上ってきたなど聞いたことがない。このままでは天運が尽きて、国中海にな... ...続きを見る

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2015/01/12 07:09
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え113〈五代目女王倭姫〉
‥‥倭姫→五代目女王に即位  西海一を誇る伊都(吉野ケ里)城→落城 吉備津彦兄弟→東征軍に寝返り 磐余彦の葬送用三角縁神獣鏡→東征途上の古墳に埋納  D邪馬台国に女王がいなくなると、饒速日は五十鈴宮で天照大(御)神二神を奉っていた倭姫を都に戻して女王に押しあげることで、国のほころびを繕った。倭迹迹姫と改名した四十過ぎの五代目女王は、ヒミコに長年仕えてきたことで、口調もしぐさもヒミコと寸分違うところはなかった。 Eところで、肥後から北上した五瀬軍は、その後どうしていたのか。彼らは山門(やま... ...続きを見る

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2015/01/11 07:03
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え114〈神功の新羅遠征〉1
‥‥神功の新羅遠征→日矛を掲げ、孫子の兵法極意「戦わずして勝つ」に挑戦 新羅王→日矛に平伏 @ついで、磐余彦は安芸の攻略作戦に取りかかった。だがこの国を制圧するには、まだまだ兵の数が足りなかった。というのも呉王夫差の二の舞にならぬようにと、かなりの将兵を筑紫島に残してきたからだ。一方の神功は、お腹に児を宿した身でありながら、 「ヒミコの神託を遂げねば、妃としての面目が立たぬ。何としても新羅を従えたい」 という想いに駆られていた。神功と磐余彦は、この件について何度も協議を重ねた結果、 「... ...続きを見る

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2015/01/11 06:53
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え112〈東征出立〉2
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え112〈東征出立〉2 B当初、仲哀は身内の反抗や、南から迫り来る敵にうろたえていたが、やがて気を取り戻して、 「ヒミコの詔を奉じて、熊襲征伐に打って出る」と決断するや、神功に祭場を拵えさせて命じた。 「ヒミコの姿に身をやつし、その口から熊襲征伐の詔を下せ」 祭場中央では、ヒミコの衣装を纏った神功が巫女となってうずくまり、その傍らで仲哀が琴を奏でていた。その当時、ヒミコの御霊は琴の音色に惹かれてどこからか姿を現し、口寄せする巫女に乗り移ると信じられていた。 背後に控える竹内宿禰が頃合を見てヒミコの詔を請うと、ヒ... ...続きを見る

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2015/01/10 07:07
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え111〈東征出立〉1
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え111〈東征出立〉1 ‥‥東征出立→二八五年頃 豊国の国造・珍彦、神功・竹内宿禰→東征軍に寝返り 仲哀率いる皇軍→自壊  神功→磐余彦の妃に転身   @二八五年七月下旬、住吉族、大山祇族、竜神を崇める海神族、伊都国一門やワニ族、諸々の隼人族、それに坊津小千族からなる東征軍が高千穂宮に集結した。全軍は折からの風雨を押して、北に向けて進軍を開始した。天道根(天道根を襲名)の部隊は東征軍の先頭に立って錦の御旗をなびかせながら、天鹿児弓・羽々矢や日前鏡を奉じてしずしずと先導していた。 東征軍は途中の都農(宮崎県都農市... ...続きを見る

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2015/01/09 06:50
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え110〈天下は一つ、家は一つ〉2
C磐余彦は彼から敵状を聞き出すと、兄や臣下らを集めて軍議を開き、決意のほどを示した。 「昔、日神と高皇産霊は、火瓊瓊杵に葦原中つ国も豊葦原水穂国も譲ると言われたが、この約束は反故にされた。天孫はそれでも正道を歩んで善政に心がけ、この国の統治に励んで来られた。 然るに、邪馬台国では善政が行き届かず、所領争いも絶えなかった。それは、武力に頼るばかりで祖父の命までつけ狙った天鹿児山が、火天神と仰がれたことに始まる。この時から、あの国の者は徳と正義を忘れて欲や感情で物事を決めつけ、もめごとの解決も力... ...続きを見る

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2015/01/08 06:59

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