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zoom RSS 『邪馬台国三国志』古代史の常識と通説を疑え11〈伊都国/倭奴国の王墓〉

<<   作成日時 : 2014/08/27 06:52   >>

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‥‥須玖岡本遺跡・三雲南小路遺跡→伊都国の王墓。井原鑓溝遺跡→倭奴国の王墓
@豊葦原中つ国王朝から伊都国王朝に至る間も、時の王が他界するとその亡骸は都近くに葬られてきた。糸島平野や福岡平野には、伊都国王の墓らしき御陵が二つ見つかっている。
一つは、明治三二年に須玖岡本(春日市)の巨大な支石墓直下から発見された甕棺だ。そこから、前漢期の草葉文鏡(前二世紀後半)・星雲文鏡鏡(前一世紀前半)など三十数面、細形銅矛四・中細銅矛一、中細銅戈一、細形・中細銅剣二以上、さらにガラス璧・ガラス勾玉・管玉などが出た。出土した草葉文鏡は径二十三a余もあって、中国出土の平均径・十三aに比べてはるかに大きいという。
鏡の年代と甕棺の様式から、前一世紀後半の墓とされる。近辺からも、銅剣・銅矛・銅戈・鉄刀を伴う甕棺多数、銅矛・小銅鐸・小型鏡の鋳型、鉄器の工房跡(紀元前後)などが見つかった。
二つ目は、徳川期の文政五年に見つかった三雲南小路(前原町)の甕棺一号棺だ。そこからも、内行花文鏡など前漢鏡三五・細形有柄銅剣一・銅矛二・銅戈一・金銅四葉座飾金具八・ガラス製璧八、朱入りの壷などが出た。これと同形の有柄銅剣が吉野ヶ里遺跡からも出たことで、吉野ヶ里にあった厳一門が糸島平野の怡土に乗り出したとする本書の考えは、的を得ていることになる。
昭和の時代に、一号棺の存在は再確認された。その際、二つ目の甕棺も発見された。二つの甕棺とも、三一×二一bの方形周溝墓に納まっていた。
この中のガラス製璧は漢の皇帝から諸王や諸侯に下賜されたもの、四葉座飾金具も王侯・功臣・属国王の死去に際して皇帝から贈られる木棺の装飾金具だった。鏡の年代・甕棺の様式・木棺の装飾具から推して、紀元前後の埋葬とされる。
☆同じ時期の墳丘墓が河内平野からも多数見つかる。伊都国王朝が畿内を支配した拠点であろう。
【瓜生堂遺跡】(東大阪市)、前三世紀以来の住居跡とともに、前一世紀の墓が見つかった。二号墓は一五×一○bの方墳で、周濠が巡る。濠の底から測った墳丘高さは一・二bあって、墳丘には木棺六、甕棺六、土壙六が合葬されていたが、副葬品はなかった。
【加美一号墳丘墓】(大阪市平野区)、瓜生堂遺跡の南西五`bにある二七×一五b、高さ三bの墳丘墓。周辺に巾五b、深さ○・五から一・二bの濠が巡る。墳丘墓に二三の木棺があり、棺内からは青銅製の腕輪二・ガラス玉二が見つかった。紀元前後の墓とされる。

A天明年間に見つかる井原鑓溝遺跡(福岡県前原町)は倭奴国王の墓らしい。三雲遺跡から南へ一○○bほど離れた水田の中にあったという墓だ。その墓から、後漢の方格規矩鏡二一面以上、鎧の札・鉄刀・鉄戈らしきもの、巴形銅器三が出た。この方格規矩鏡の様式は後漢初期のもので、金印を授かった頃に近い。そうだとすると、出土品からこう判定できよう。
一、鉄刀は天之国が奉じてきた祭器だ。
一、出土した方格規矩鏡は、倭奴国が光武帝から授かった鏡だ。

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