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zoom RSS 『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え96〈可愛山陵・端陵/男狭穂塚・女狭穂塚〉

<<   作成日時 : 2014/12/21 06:55   >>

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‥‥男狭穂塚・女狭穂塚→元来は狭穂姫・狭穂彦の御陵。五世紀に規模が拡大
@同じ頃の日前では、火瓊瓊杵と木花開耶姫がヒミコの後を追いかけるようにして逝った。跡継の火火出見は大葬を済ませて日前を継ぐや、後見役として共に天降ってきた実母の狭穂姫、その義兄の狭穂彦を火瓊瓊杵夫妻に見立てながら孝行に勤しんでいた。
実をいうと狭穂姫には、狭穂彦との間に秘話があった。狭穂彦は、幼少の折に日子坐王の養子にもらわれてきて、いずれは狭穂姫の婿となる定めにあった。この時代、幼い許婚が一つ屋根の下で暮らしつつ、やがて結ばれる風習が流行っていた。向津姫と豊受皇太神の二人も、そうだ。
A火瓊瓊杵の墓とされる可愛山陵(えのやまのみささぎ、宮内庁管理)は、新田神社(鹿児島県川内市、祭神は瓊瓊杵と木花開耶姫)の背後に築かれた。近くに、木花開耶姫の墓とされる端陵(はしのりょう)もある。調査の結果、端陵は山の稜線を利用した全長五十余bの柄鏡型前方後円墳と判明した。宮崎県には、日向型と呼ばれる柄鏡型前方後円墳が、西都原古墳群以外にも多々ある。その中には、山の稜線を利用した古墳も少なくない。
☆可愛山陵は、高屋山上陵、吾平山上陵とともに神代三山陵の一つ。明治政府は瓊瓊杵の御陵として、新田神社境内の神亀山を可愛山陵に定めた。その後、北川陵墓参考地(可愛山陵伝承地、宮崎県東臼杵郡北川町)や、男狭穂塚陵墓参考地(可愛山陵参考地、宮崎県西都市)を追加した。
B西都原古墳群(西都市)にある男狭穂(おさほ)塚と女狭穂(めさほ)塚も火瓊瓊杵と木花開耶姫の陵と噂されてきた。二陵は全長が一七五b、一七六bの前方後円墳で、ともに宮内庁管理の陵墓参考地となっている。
その男狭穂塚の倍塚から円筒や盾形の埴輪が、女狭穂塚からは舟形や家形の埴輪が出て、それが奈良県の宮山古墳から出た埴輪と酷似することがわかった。最近の調査で、男狭穂塚は畿内に多い帆立貝形の前方後円墳と判明した。その築造期は五世紀とされる。
男狭穂塚と女狭穂塚が畿内に多い帆立貝形であることに加え、火瓊瓊杵・木花開耶姫の御陵として伝わること、女狭穂塚から畿内と似る埴輪が出たこと、墓の名が狭穂彦・狭穂姫を連想させること、本書では火瓊瓊杵夫妻が狭穂彦・狭穂姫と同世代にあたること、双方とも火火出見の親の立場にあったこと、女狭穂塚が男狭穂塚に折り重なること、その築造期が五世紀前半であることから推して、このように推察した次第だ。
一、狭穂彦・狭穂姫は火火出見の後見役となって日向に降ってきて、晴れて結ばれた。
一、火火出見はこの二人を火瓊瓊杵夫妻に見立てて孝行に励んだ後、こじんまりと造った男狭穂塚・女狭穂塚に弔った。
一、五世紀、東征軍に参加した狭穂彦・狭穂姫の子孫が日向に里帰りし、二人の御陵を身分相応の規模に押し広げた。

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