『邪馬台(やまと)三国志』を検証してみよう

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zoom RSS 『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え113〈五代目女王倭姫〉

<<   作成日時 : 2015/01/11 07:03   >>

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‥‥倭姫→五代目女王に即位  西海一を誇る伊都(吉野ケ里)城→落城
吉備津彦兄弟→東征軍に寝返り
磐余彦の葬送用三角縁神獣鏡→東征途上の古墳に埋納 
D邪馬台国に女王がいなくなると、饒速日は五十鈴宮で天照大(御)神二神を奉っていた倭姫を都に戻して女王に押しあげることで、国のほころびを繕った。倭迹迹姫と改名した四十過ぎの五代目女王は、ヒミコに長年仕えてきたことで、口調もしぐさもヒミコと寸分違うところはなかった。
Eところで、肥後から北上した五瀬軍は、その後どうしていたのか。彼らは山門(やまと、福岡県山門郡)周辺で邪馬台国軍と会戦して敵を蹴散らすや、何万もの(倭)奴国民を開放して身内に取り込んだ。
そこで兵を倍増した五瀬軍は、難攻不落の伊都城(吉野ケ里)攻略に成功しただけでなく、吉備や畿内の将兵を数多虜にし、武器や食糧も山のごとく押収した。
磐余彦はこの捕虜たちを殺そうとはせず、東征軍に加担して邪馬台国に立ち向かうよう説き続けた。現に、日本武は彼の児同様に処遇されたし、武甕雷と吉備津彦兄弟も身内並みに扱われてきた。
こうして西海一を誇った伊都国の城郭は、南蛮・西戎に備える軍事目的が消滅したことで、内外の濠とも埋め戻され、柵も家屋も取っ払われた。それは、二八五年頃のことだ。
【吉野ケ里遺跡】、後期前半(倭奴国王朝初期)、丘陵全体を巡る外濠が完成して、内濠も巡った。ここに、天之国軍が進駐してきたらしい。後期後半(日本王朝期)、環壕内に望楼が建った。全体の広さは二十五fもあって、当時として最大。
弥生終末期か古墳時代初め(神武東征時)に、濠は大量の土器で埋め尽くされ、集落はほぼ消滅した。近畿や地方の環濠集落も、この時期に同様の経過を辿った。
東征軍が筑紫島を平定する間に、多くの勇士が戦場の露となって消えた。その亡骸は、戦場近くの古墳に三角縁神獣鏡と一緒に葬られた。その墓としては、宇佐の赤塚古墳、苅田の石塚山古墳、甘木の神蔵古墳、筑紫野の原口古墳、那珂川に近い妙法寺古墳、二丈の銚子塚古墳が該当するようだ。一方、大手柄を立てた勇士の中には、何枚もの三角縁神獣鏡を手にする者たちがいた。
 名称     所在地   形状           全長(b)    鏡の副葬品
赤塚古墳   宇佐市  柄鏡式前方後円墳    五一     三角縁神獣鏡四 
石塚山古墳  苅田町  前方後円墳       一二〇    三角縁神獣鏡七 
神蔵古墳   甘木市  ホタテ貝型前方後円墳  四〇     三角縁神獣鏡一 
原口古墳   筑紫野市 バチ型前方後円墳    八〇     三角縁神獣鏡三 
銚子塚古墳  二丈町  前方後円墳       一〇三    三角縁神獣鏡八

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