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zoom RSS 『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え111〈東征出立〉1

<<   作成日時 : 2015/01/09 06:50   >>

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‥‥東征出立→二八五年頃
豊国の国造・珍彦、神功・竹内宿禰→東征軍に寝返り
仲哀率いる皇軍→自壊  神功→磐余彦の妃に転身  
@二八五年七月下旬、住吉族、大山祇族、竜神を崇める海神族、伊都国一門やワニ族、諸々の隼人族、それに坊津小千族からなる東征軍が高千穂宮に集結した。全軍は折からの風雨を押して、北に向けて進軍を開始した。天道根(天道根を襲名)の部隊は東征軍の先頭に立って錦の御旗をなびかせながら、天鹿児弓・羽々矢や日前鏡を奉じてしずしずと先導していた。
東征軍は途中の都農(宮崎県都農市)で国土平定と戦勝を祈願したあと、次の目的地である美々津を目ざした。美々津では軍船や物資の手はずが万端整い、出陣命令を待つだけとなっていた。
磐余彦はそこでも武運と航海の安全を祈願してから、天候の回復を待っていた。ここから出航して豊前宇佐(大分県宇佐市)を一気に攻略し、さらに北上して背後から橿日宮を襲う作戦だ。
八月一日の夜半に、風雨が収まり波も静まって、北向きの順風が吹き始めた。すると、子供らの伝令が闇夜の中を走り回り、「起きよ。起きよ。お立ちだ」と触れ回っていた。
真っ暗な浜辺に続々と集結した将兵らは、氏族ごとに船団を組み終えると、空が白むのを待って沖へと漕ぎ出した。
「神武記」、「神倭伊波礼毘古(磐余彦)命、その同母兄五瀬命と二柱、高千穂宮に坐しまして議(はか)りて云(の)りたまいけらく、『何地(いづこ)に坐さば、平らけく天の下の政を聞こしめさむ。なお東に行かむ。』とのりたまいて、すなわち日向より発たして筑紫に幸行(い)でましき。」
【立磐神社】(美々津)、東征軍の出立に際して、神武天皇はここで航海の安全と戦勝を祈願した。
【秋凧をあげる行事】(同)、船出に際して、天候や風向きを測るために盛んに凧をあげたことに由来するという。
☆美々津の町で旧暦八月一日に行われる「おきよ祭り」は、東征軍の出発にちなむ行事だ。その日の夜明け前に、子供たちが「起きよ。起きよ。お立ちだ」と叫びながら町中を駆け抜けると、それぞれの家では米と小豆粉でつくった餅を神棚に飾り始める。東征軍はこれと同じ餅を口にしながら、慌しく船出したという。
A船団が速吸瀬戸(はやすいのせと、豊予海峡)に到ると、豊国の国造が亀を象った船に乗って近づいて来た。磐余彦がその男を呼んで誰何すると、男は答えた。
「珍彦(うづひこ)と申します。お迎えに参じました。十年近く前に豊国に赴任して以来、何度も瀬戸内海を往来しました。紀伊でも国造を勤めました故、瀬戸内海の航路はおろか紀ノ川沿いから都へ抜ける道筋も熟知しています。私の妹・影姫と大足彦(景行)との間に生まれた竹内宿禰は、今では大臣を勤めるほどに出世しました」
珍彦はかつて紀伊国造として垂仁に仕えたが、景行の熊襲征伐時に豊国に置き去りにされたままで不遇をかこっていた。彼は磐余彦から帰順を促されるや即座に、
「喜んで拝命し、私の治める豊国をそっくり差し上げましょう。竹内宿禰の帰服にも努めます」
と応じたことで、椎根津彦(しいねつひこ)という名を賜って、水先案内と先陣を受け持つことになった。
その後、東征軍は宇佐で刃向かう者どもを討って初戦を飾ると、さらに北上して遠賀川河口に上陸し、付近に岡田宮を築いた。
時をあわせて、五瀬軍も肥後防衛に当たってきた砦を抜け出て、北に向かった。その先陣は敵中をかく乱したり、遊撃戦に打って出るなどしながら、本陣を北へ北へと誘導していた。敵中にひそかに潜入した部隊も邪馬台国の砦を不意打ちしては、東征軍の旗をなびかせていた。

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