『邪馬台(やまと)三国志』を検証してみよう

アクセスカウンタ

zoom RSS 『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え147〈皇天二神を称える御陵〉

<<   作成日時 : 2015/02/19 06:59   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

‥‥皇天二神を称える御陵→磐余地方の鳥見山北麓に造営
箸墓→女王トヨ(豊鍬入姫)も合葬
@四つ目の仕事は、皇天をたたえて新たな御陵を築き、そこで日神と高皇産霊を皇祖皇宗としてお祭りすることだ。大和朝廷としてはヒミコの墓をそのまま残しておく理由などなかった。かと言って取り壊すこともできなかった。そこで彼は、ヒミコもヒミコの墓も最初から存在しなかったとして、こう決断した次第だ。
一、日神と高皇産霊のために、鳥見山麓に壮大な日向式山陵(柄鏡型前方後円墳)を築く。
一、ヒミコの墓の方形を継ぎ足してそこに女王トヨも合葬し、倭迹迹日百襲姫の墓と思わせておく。
一、それぞれに祭場を設けて、石塚古墳に鎮まる天照大神御霊を高皇産御魂に、また箸墓に眠るヒミコの御霊を日神御魂に蘇生させて新しい御陵に再葬し、そこで封禅さながらに郊祭して日天神に配し、ついで皇祖皇宗に奉る。
その際、これまでのお礼を皇天に申し上げるとともに、晴れて倭奴国王朝の再興が成ったことや、大和朝廷に移行する経緯を事細かにお伝えする。
A磐余彦はこの考えに沿って鳥見山の尾根を利用した壮大な御陵を築かせる一方、太子(崇神)に対してヒミコの墓を早急に造り変えるようにと命じた。
太子の命令一下、太氏と三輪(神)氏は古墳西方の大地を掘り起こし、そこから出た土砂でもって幅六○〜七○bの周濠を埋め戻す工事や、方墳部を少し継ぎ足した上で方墳全体に土をかぶせる工事に取りかかった。
これが完成すれば、ヒミコの墓は方墳先端のバチ形がさらに広がり、石葺きだった方墳が土でうっすらと覆われた前方後円墳に様変わりする。しかも二重に取り巻く周濠が消えうせ、大池が忽然と出現することになる。
【箸墓古墳】、方形部がバチ形をした前方後円墳で、纏向の平地に築かれ、全長が二八〇b、円径が一五七b、高さが二五bある。その規模は大和で第三位、全国でも十一番目だ。円墳部は割石が五段に敷かれた石塚で、方墳部は葺石を覆い隠すようにして二〇aほど盛土されたらしい。
このように、円墳と方墳の築造形態が異なること、円墳上にあった宮山型特殊器台・特殊壷が吉備に由来する三世紀中頃の土器とされる一方、方墳南端から採取された二重口縁壷形埴輪は三○○年頃と思しき吉備系土器だったことで、円墳と方墳の築造期が異なると指摘する向きもいる。近年の方墳周辺の調査では、方墳部は二八〇〜三〇〇年頃の築造と判定された。
平成二十年八月には、前方部正面に幅六○〜七○bもの外濠跡が見つかった。周辺の発掘結果とあわせると、内濠・外濠を備えた古墳だったらしい。だとすると、国内最大の仁徳天皇陵(五世紀、全長四八五b)に匹敵するほどの周濠が、三世紀に存在していたことになる。
 平成二十四年六月に橿原考古学研究所は、ヘリコプターからレーザーを使って箸墓古墳を測量した立体地図を発表した。墳丘の段数は後円部が五段、前方部は三段と判明した。
☆箸墓古墳の円墳と方墳の形態が異なることや、円墳上にあった特殊器台・特殊壷が三世紀中頃の土器、方墳南端にあった二重口縁壷形埴輪が三○○年頃とされることから、円墳・方墳の築造期は明らかに異なる。
 
画像
画像


〈パブー〉から発売中の
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え(B6版339p、1400円)‥‥2/18に改訂しました。
〈アマゾンkindle〉から発売の予定 
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え(B6版339p、1400円)‥‥三月下旬〜四月

 ホームページ『邪馬台三国志』

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え147〈皇天二神を称える御陵〉 『邪馬台(やまと)三国志』を検証してみよう/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる