『邪馬台(やまと)三国志』を検証してみよう

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zoom RSS 『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え153〈おわりに〉

<<   作成日時 : 2015/02/25 06:46   >>

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D『古事記』に、「(神武天皇の)御陵は、畝傍山の北、白檮の尾の上にあり」とあるが果たしてそうだろうか。磐余地方の山の稜線に、四世紀初めに造られた日向式の柄鏡形前方後円墳が『日本書紀』の記述に沿った形で二陵も築かれたことは、以下の遺勅や言葉と無関係ではあるまい。
★光武帝の遺勅、「朕は民に益するところが無かったので、葬送の品は瓦器を用い、金銀銅錫などで飾らぬようにせよ。墓も自然の山形を利用するに止め、墳丘を築いてはならぬ。できるかぎりの倹約を宗とせよ」
★魏文王の定めた寿陵制度、「その昔、堯は穀林に埋葬され、その陵には穀林と同じ木が植えられた。そのことで、陵と山林の識別が難しくなり盗掘を免れた。土盛りや植樹する墓は古の精神にはずれており、採用するところではない。寿陵は山形を利用するに止め、土盛り・植樹をしてはならぬ。・・葬送は上古の建前に則り、金銀銅鉄で造った葬送品を使わずに土器だけで済ませ、」

ここに至っても、この物語の筋書に疑念を抱く人や、これまで信じて疑うことのなかった「万世一系」の思い込みから抜け出せない御仁もいるだろう。そうならないためにも疑問を感じたそのつど、本書の王系譜や中国史書と照合して確かめてみることだ。
そもそも、邪馬台国の位置やヒミコの人物像に一気に迫れる妙策はあるのかと問われると、本書の王系譜を道しるべとしつつ、司馬遷と同じ心意気を持ってまい進するのが正道だと声を大にして答えたい。これこそ、皆が迷い込んだまま脱出できないでいる袋小路を未然に避けて通り、謎だらけの邪馬台国史を一つ一つ解明できる一番の近道と信じている。
そのためにも今一度、司馬遷の言や和辻哲郎氏の説(大正九年発表)を頭に叩き込んでおきたい。彼らの考えが古代史の本質を大所高所から見渡していて、大筋のところでも的を射ているのである。
★宋・元時代の中国史家の言、「日本いう、呉の太伯の後なりと。けだし、呉亡んでその傍流、海に入って倭となる」
『晋書』や『魏略』逸文、「(倭人は)太伯の末裔と自ら言う」
『後漢書』「二年(五七年)春正月、初めて北郊を立て后土を祀る。東夷の倭奴国王、使を遣わして奉献す」、「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝貢す。倭国の極南界にあり。光武、賜うに印綬を以ってす」
『旧唐書』「倭国日本伝」、「倭国は古の倭奴国なり。・・その王、姓は阿毎氏なり」
☆阿毎(あめ)氏→天之国
『宋史』「日本伝」、「日本国はもとの倭奴国なり」
『淮南子』天地開闢の神話、「昔、天も地もなかったとき、世界は真っ暗闇で、形あるものは何一つなく混沌としていた。その中から、二神が生まれ出た。陰陽の二神で、天地の創造に苦労していた。やがて、陰陽が分かれて八方の位置も定まると、陽神が天、陰神が地を治めることになってこの国ができ上がった」
☆天→天(太陽)を祀る天之国(〓倭国の盟主)。地→地の神を崇める豊葦原中つ国〓奴国
☆記紀の天地(あめつち)〓倭奴(倭+奴)国
★「総じて、上古のことを伝える書経や古老の伝承から、あまり離れていないものが真実に近い。それに深く思いを巡らし、心にその意を知ること、そのことが大事なのであって、伝えられてことは決して虚言ではない」
☆ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』にある物語は、古代の伝説かお伽話と決めつけられてきたが、十九世紀になってドイツの素人学者シュリーマンがトロヤの大城壁都市とともにおびただしい財宝を探しあてるに及んで、記述どおり史実と判明した。
☆司馬遷の書き残した『史記』「殷本記」は、神代と歴史時代を結びつけるための作り話に過ぎないとされたが、二十世紀に、王国維が甲骨文字を解読し、ついで殷の宮殿跡や陵墓が発見されたことで、「殷本記」にある事績や十数代にわたる王名がほぼ真実と判定された。
★「皇室の発祥が大和であったなら、畿内勢の祭器だった銅鐸は大和朝廷や皇室の祭祀・文化の中に何らかの形で残って然るべきだが、銅鐸は山中に打ち捨てられた形で見つかる。一方、北九州系の鏡・剣・玉は皇位の印しとなり、古墳に副葬品として埋納されてきた。このことは、北九州勢が畿内勢を打ち破ったことを物語っている」

最後に一言。その後の大王や天皇が神武の遺志を守り通したとは思われない。『日本書紀』が編纂されたことや、倭の国名が日本国と変わることから、容易に推し量れる。
そこに至る間、日本の末裔たちは、大化改新や壬申の乱を掻い潜って力をつけて行き、大和朝廷を牛耳るほどに盛り返すらしい。
☆壬申の乱では、大海人皇子(天武天皇)側が磐余彦陵に馬や兵器を奉って必勝を祈願し、近江に都する大伴皇子側の三輪君らも箸墓辺りに陣取って戦った。


目下、倭奴国と邪馬台国の栄枯盛衰物語、倭奴国と邪馬台国の栄枯盛衰(短縮編)を再編中です。近々に改訂します。

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