『邪馬台(やまと)三国志』を検証してみよう

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zoom RSS  【王朝の変遷】

<<   作成日時 : 2018/06/26 08:34   >>

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@A縄文後期から終末期にかけて、五帝期の地の神・黄帝につながる那珂(中)つ国/呉の太伯・夫差ら
子孫の天之(あめの)国が連合して、天地(あめつち)が興った。
B前四世紀後半、夏后帝小康・越王勾践末裔の厳之(いつの)国王朝(越のオロチ族)に、
C前二二○年代に天之国/韓族の日高国からなる倭(ヤマト)国王朝に、
D続いて漢族の豊国/葦原家(厳一門)/中つ国の組む豊葦原中つ国王朝に移り変わった。
Eついで越オロチ族の伊都(いつ)国王朝に、
Fさらに一世紀前半には、倭国/豊葦原中つ国からなる天地(あめつち)、即ち倭奴(ヤマト)国王朝へと変
遷した。
 一八〇年代前半、大倭の副都を治める太子・豊受皇太神が三輪氏と組んで邪馬台国なる厳之国王朝
を立て、天照大神と語って水天神に昇った。倭奴国は出雲での決戦に敗れて日向に逃れた。
 二二〇年代前半、高千穂宮(高天の原)で日神に担がれていた天照大御神は、大倭に遷座して邪馬台
国[厳之国、天(厳)之国、日本(やまと)王朝に変遷]の女王に立ち、日向のヤマト王朝[天之国から日前、
和(ヤマト)王朝に変遷]と対立した。
G二八五年〜二九〇年代末、和王磐余彦(神武)は倭奴国王朝を再興すべく日向から東征して日本王朝
を討ち、三〇一年(辛酉)元旦に大和朝廷を打ち立てた。
 三〇四年二月、神武は鳥見山の祭場(桜井茶臼山古墳)で封禅さながらに郊祭して日神・高皇産霊を皇
祖皇宗に奉り、その教えに永久に従うことを誓った。
  記紀の矛盾を正して本来あるべき王系譜に組み替え、物語風に書き上げました。その筋書は「倭人伝」
・各地の伝説・古社の縁起・地名の由来と一致して、王系譜も丹後籠神社所蔵の海部氏系図(国宝)や、
『播磨国風土記』の記述と合致します。
    水穂(瑞穂)国  金印「漢委奴国王」の読み 
    天之国/倭国(高天)/倭奴国(天地)/邪馬台国〔厳之国王朝の再現、天(厳)之国、日本国〕/大和朝廷の生い立ち
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