テーマ:古代史の常識と通説を疑え

『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え153〈おわりに〉

⑤『古事記』に、「(神武天皇の)御陵は、畝傍山の北、白檮の尾の上にあり」とあるが果たしてそうだろうか。磐余地方の山の稜線に、四世紀初めに造られた日向式の柄鏡形前方後円墳が『日本書紀』の記述に沿った形で二陵も築かれたことは、以下の遺勅や言葉と無関係ではあるまい。 ★光武帝の遺勅、「朕は民に益するところが無かったので、葬送の品は瓦器を用い…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え152〈皇祖皇宗の祭祀〉3

③この鳥見山から北へのびる尾根上には、四世紀初めに造られた日向型の柄鏡形前方後円墳が鎮座する。桜井茶臼山古墳と呼ばれるそれには、樹齢千年以上の巨木からなる木棺が安置されていて、その内外に二十六面の三角縁神獣鏡をはじめ、内行花文鏡・方格規矩鏡・画文帯神獣鏡・獣帯鏡など八○面以上の銅鏡、それに三種神器である曲玉・鉄剣、さらに王権を示す碧玉製…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え151〈皇祖皇宗の祭祀〉2

②この儀式の拠りどころは五帝期の封禅や、成王を補佐した周公が后稷(周祖棄)を南郊に祀って天(農耕の天神)に配し、秋に新穀を奉った周礼、また文王を明堂に祀って皇祖に配した周礼、さらに光武帝が漢朝を再興した際の封禅や郊祭にあるのは明白だ。 ☆周公は幼い成王を助けて政に就くと、后稷を南郊に祀って天に配し、文王を明堂に祀って上帝に配した。それ…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え150〈皇祖皇宗の祭祀〉1

‥‥皇祖皇宗の祭祀→鳥見山北麓の桜井茶臼山古墳で封禅さながらに郊祭して皇天二神を天に配し、皇祖皇宗に奉る。 祭祀の式日→神武四年(三○四年)の春二月二十三日(桃の咲く頃) 儀式の拠りどころ→五帝期の封禅、周礼、光武帝による封禅や郊祭 ①月日が流れて、ヒミコの墓(箸墓古墳)がバチ形の前方後円墳に様変わりすると、神武はそこに祭場を設け…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え149〈建国式と神武天皇の即位〉

‥‥建国式と神武天皇の即位→三〇一年(辛酉年)元旦 ①年が明けた三〇一年(辛酉年)元旦、雅楽が厳かに流れて猿女君(天鈿女の子孫)らが神楽を舞い踊る中で、磐余彦は建国の儀と即位式に臨んだ。儀式が盛り上がったところで、彼は火火出見愛用の礼衣を纏った姿で現れ出て、神日本磐余彦火火出見と名のるや、神璽の鏡剣を捧げ持って大和朝廷の建国を声高らか…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え148〈宗廟の創建〉

‥‥宗廟の地→伊勢の五十鈴川川上 ③五つ目の仕事は、日神と高皇産霊を伊勢で祭祀することだ。彼は渡会宮(磯宮)のすぐ南に檜御柱を立て、その真上に祭殿を建立して天照御魂神(真経津鏡)を奉祭すると、天富(あめのとみ、太玉子孫の斎部)を宮司(みやづかさ)として檜御柱の許で厳粛な儀式をとり行った。その形は、日神が高皇産霊の再来を祈っているかのご…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え147〈皇天二神を称える御陵〉

‥‥皇天二神を称える御陵→磐余地方の鳥見山北麓に造営 箸墓→女王トヨ(豊鍬入姫)も合葬 ①四つ目の仕事は、皇天をたたえて新たな御陵を築き、そこで日神と高皇産霊を皇祖皇宗としてお祭りすることだ。大和朝廷としてはヒミコの墓をそのまま残しておく理由などなかった。かと言って取り壊すこともできなかった。そこで彼は、ヒミコもヒミコの墓も最初から…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え146〈大和朝廷のはじまり〉2

②磐余彦の二つ目の仕事は、太子を一から決め直すことだった。彼は時間的な制約から独断する以外にないと悟ると、まず自分の身内を政権からはずし、都からも遠ざけた。そうすることで、厳正に対処する姿勢を示したのだ。即ち、磐余彦の長男は阿蘇神宮の神職に就き、兄の御毛入野は高千穂郷に戻って日神の祭祀に専念することになる。 【阿蘇神宮の縁起】、「神武…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え145〈大和朝廷のはじまり〉1

‥‥橿原宮の完成→四世紀初頭 皇天に二つの誓い→①辛酉年元旦に、大和朝廷の建国の儀と即位式を行う。 ②倭を一家にまとめる、太子を決め直す、垂仁の神璽を後世に伝える、皇天二神の御陵を築き皇祖皇宗に奉る、あわせて宗廟を建てるなど、五つの仕事を成し遂げる。 大倭の地→大和と改名 神功皇子・気比大神・開化皇子・新羅王子・磐余彦の児→互い…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え143〈日本武の北伐〉4

⑥任務を果たして帰途についた日本武は、碓氷峠を越えて甲斐(山梨県)や信濃(長野県)も鎮めて回った。尾張に戻った彼は真っ先に宮ス姫の家に駆けつけ、天鹿児山の霊前で結婚式を挙げたのだった。 月日がたって、彼は伊吹山になおも賊が隠れ潜むと聞くや、居ても立ってもいられなくなったのか、討ちとる決意を固めると同時に、妻に次の言葉と草薙剣を託して出…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え144〈黒塚古墳 〉2

‥‥出土品の状況や築造時期→日本武尊の事績・足跡・生存期と合致 ①ところで、箸墓古墳真北(旧上之宮北)の上ツ道沿いには、例の黒塚古墳がある。前述したように、箸墓での南郊に続いて北郊の祭祀が黒塚古墳で行われた可能性が高い。また、ヒミコの祝いの八咫鏡(三角縁神獣鏡)とともに磐余彦の葬送用八咫鏡(三角縁神獣鏡)が埋められたのも、確かなところ…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え143〈日本武の北伐〉4~153〈おわりに〉の題目

『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え143〈日本武の北伐〉4~153〈おわりに〉の編集が完了しました。それぞれの題目と概要は、以下の通りです。 『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え143〈日本武の北伐〉4 『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え144〈黒塚古墳 〉2 ‥‥出土品の状況や築造時期→日本武尊の事績・足…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え142〈日本武の北伐〉3

☆鹿島神宮が豊葦原中つ国を平定した武甕槌を祀ることは前述した。この神宮は同名のよしみなのか、大神武甕雷も合祀するらしい。これは、神宮に伝わる常陸帯神事からも見て取れる。 ☆常陸帯神事とは、帯端に男女の名を書いてつき合わせることで、結婚相手を占う神事だ。『鹿島志』はこの帯が神功皇后の腹帯に由来するという。 ☆神道が鹿を神聖視してきた歴…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え141〈日本武の北伐〉2

③数日後、伊勢入りした日本武は叔母の倭姫を訪ねた後、二人して伊勢太神の廟に参って武運と加護を祈っていた。この時の倭姫は六十歳そこそこだったろう。彼女は大日本家に養女入りした時は倭姫、ついで女王の座にある時は倭迹迹姫、女王を降りると再び倭姫という風に名前を使い分けた。 祈願を終えた日本武は目に涙しながら、ついつい倭姫に本音をもらしてしま…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え140〈日本武の北伐〉1

‥‥日本武の北伐→陸奥で兵法極意「戦わずして勝つ」に挑戦。二九○年代末  現人神の子→天神(天照国照彦火明饒速日、三代垂仁)の御子 神→日本大物主大神(火明饒速日)とその御子  ①磐余彦は太子を決めるに当たって、真っ先に景行を招いて訊ねた。 「このところ、東国では暴れ回る者どもが横行している。とりわけ、蝦夷たちは国境を侵して頻繁…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え139〈橿原宮の造営〉

‥‥橿原宮の造営→三世紀末の着工 ①二九九年三月、磐余彦は今に至った経緯を振り返りつつ、新都の造営を決断した。と同時に、政を進めるにあたっての方針や心構えについて、詔として衆知させることにした。 「日向を発ってこの方、皇祖天神(日神と高皇産霊)の威光に助けられて、この国を統一することができた。北と東の辺境には今も刃向かう徒がたむろし…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え138〈祭殿取り壊し〉

‥‥祭殿取り壊し→磐余彦に逆らった罰。その証拠に、三輪氏や日本の末裔らが祀る大神神社・石上神宮は祭殿を有しない。 敗れた日本一派→東北に逃亡 ①磐余彦は大倭一円を制圧すると、畿内に隠れ潜む残党に降伏を勧めて回る一方、刃向かう者に対しては力ずくで追い払った。と同時に、邪馬台国側の主要な祭殿をとり壊し、その再建も認めなかった。大神家につ…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え137〈黒塚古墳 〉1

‥‥黒塚古墳→箸墓の真北に築かれた故、この名がある(北の色〓黒) 祝いの八咫鏡(三角縁神獣鏡)・祝いの鉄刀出土→邪馬台国(日本朝)滅亡と同義 葬送用と祝いの八咫鏡(共に三角縁神獣鏡)・鉄刀の副葬→大和朝廷の葬送儀礼に発展 ①ここで、例の黒塚古墳について考えたい。箸墓古墳と黒塚古墳は旧上之宮の真南と真北に位置している。五行説では、黒…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え136〈日本王朝の滅亡〉2

③この時の様子は、『日本書紀』に詳しい。これに少々書き添えて紹介したい。 ★長スネ彦は、磐余彦に言上した。 「昔、天神の御子の饒速日が天降って来て私の妹を娶り、私もこの人に仕えました。あなたも天神の御子と申されますが、そちらの方こそ偽者でしょう」 「天神の御子は多い。主人が天神の御子なら、その印しがあるはずだ。それを示しなさい」 …
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え135〈日本王朝の滅亡〉1

‥‥饒速日の降伏→日本朝滅亡と同義。二九八年頃 金色の鵄の祥瑞→高皇産霊に成り代わって郊祭できる資格を天から拝命 天津瑞の天羽羽矢→火天神・天鹿児山(天羽羽)の御子の印し ①その後、神功は武甕雷軍・騎馬軍団を率いて紀ノ川沿いの山道を駆けのぼり、纒向の都に向かって快進撃していた。夫の訃報を聞きつけたヒミコがこの道を駆け抜けた話は、…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え134〈日前宮と熊野三山〉

◇日前宮(和歌山市) ★素戔嗚と五十猛が祀られていた秋月の地には、日前神宮と国懸神宮が隣接して鎮座する。二つ合わせて、日前宮(にちぜんぐう)とも名草宮とも呼ばれる。 ★日前神宮は日前(ひのまえ)大神を祭って日の像の鏡を御神体に、国懸神宮は国懸大神を祭って、日矛鏡を御神体にすると伝わる。前述したように、日前・国懸両宮とも伊勢神宮と同じ…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え133〈日隈・日前・熊野家の先祖祭祀復興〉2

⑥伊奘諾は、表向きには素戔嗚に向かって、「高千穂宮に居ってはならぬ。根の堅洲国なり何なり、とっとと出て行け」と詔して追放したが、心の底では、素戔嗚がオロチの天照大神親子を討ち果たしてくれるよう念じていた。 日神も素戔嗚に対して、「高千穂宮に居てはならぬ」と追放を申し渡す裏で、一刻も早い豊葦原中つ国の建て直しや熊野家再興を切望するあまり…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え132〈日隈・日前・熊野家の先祖祭祀復興〉1

◇日隈・日前・熊野家の先祖祭祀復興 二世紀後半から四世紀初頭にかけての歴史は、今風の歴史感覚では考えの及ばないところが多々あるものの、記紀の記述や東アジア史をたどって行くことで、そこそこは見えてくる。 かいつまんで言うと、一世紀前半に北九州に興った倭奴国王朝は、一七○年代になると、東の国が王朝を軽視したことで、日隈(熊野家、熊襲)の…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え132〈日隈・日前・熊野家の先祖祭祀復興〉1~142の題目

『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え〈〉~〈〉の編集が完了しました。それぞれの題目と概要は、以下の通りです。 『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え132〈日隈・日前・熊野家の先祖祭祀復興〉1 ◇日隈・日前・熊野家の先祖祭祀復興 『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え133〈日隈・日前・熊野家の先祖祭祀復興〉2 …
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え131〈日本に迫る〉

⑥それというのも、これまで高皇産霊の霊光を期待して戦ってきたが、厳(水)一門に対しては効き目が今一つだったからだ。そもそも高皇産霊と語るには、初代の高皇産霊が豊葦原中つ国王朝に担ぎ出された際の儀礼を踏襲しておくのが古来の決まりだった。 その手間を省いたことで霊光がないと悟った彼は、今度こそ高皇産霊に成り代わって兵法極意の下で日本を倒し…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え130〈熊野から北上〉2

③武角身と八咫烏らが東征軍の先頭に立って吉野川上流(川上村)にやって来ると、ヤナ漁を仕掛けている人らに出くわした。磐余彦はその男に向かって、 「私は天神の御子だ。この行列は十握剣を奉祭しながら都に向かっておるところだ。お前は誰か」 と誰何した。すると相手は、 「私は天照大神に仕えた者の子孫で、この地域を治める贄持(にえもつ)の子で…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え129〈熊野から北上〉1

‥‥十握剣を奉って北上→高皇産霊・天照大神の行列と語りつつ、日本に進攻 三毛入野・稲飯・天香語山→伊勢・志摩をくまなく平定 尾飾りをつけた人→天之尾羽張神一門  土雲→土の神を崇める雲師(中つ国系の将兵) 日前鏡・日矛を再度秋月に奉納→日隈・日前の再興成就。つまり日前神宮の始まり ①南海道の海沿いをことごとく制圧した東征軍は、二…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え128〈熊野家の祭祀〉

‥‥神倉山の祭祀→熊野家再興を成就し、伊奘諾夫妻と熊野櫛御気野親子を祖霊として祭祀 那智大滝の下で天香語山が火天神、八咫烏が大穴持(天照大神)を祭祀→那智の火祭り ①天香語山と八咫烏らが周辺に潜む熊ら残党を一掃すると、磐余彦は神倉山に再度登って十握剣を捧げ持ち、戦勝報告とともにお礼の言葉を申し述べていた。 「経津主や高皇産霊の霊光…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え127〈熊野村の戦い〉2

④翌朝、夢からさめた天香語山は、手許に届いた十握剣を眺めている内に、なぜか恨みが込み上げて来て、これまで先祖に対して義理の欠き通しだったと思い知った。彼は先祖に深く詫びる気持で、 「わが先祖の天照大神と天鹿児山は、素戔嗚の手勢に踏みつぶされた。大己貴の日隅家も、素戔嗚・五十猛率いる熊らに乗っ取られた。わが先祖は素戔嗚一門に遭遇して以来…
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『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え126〈熊野村の戦い〉1

‥‥熊の不意打ち→熊野でも兵法極意の達成に挑んだが、またも失敗 高倉下の熊退治→天香語山(天鹿児山襲名)が素戔嗚親子を祖霊と仰ぐ熊族を退治した実話。つまり八俣の大蛇退治の仇討ち 高倉下→天香語山 ①その後に事態が急変した。事の次第を知った熊らが、磐余彦の仕打ちに怒ったのだ。熊らは口々に、 「先だっての磐余彦は降伏の礼に則り、素戔…
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