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zoom RSS 『邪馬台三国志』古代史の常識と通説を疑え80〈当時の大陸情勢〉2

<<   作成日時 : 2014/12/03 06:39   >>

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C二三七年(景初元年)、魏は幽州刺史の毌丘倹(かんきゅうけん)に大軍をつけて遼東南境に駐留させ、鮮卑・烏丸らを統率させると同時に、天子の詔勅を使って公孫淵を召し出そうとした。
公孫淵も負けずに兵を繰り出して来た。毌丘倹はこれを征伐しにかかったが、悪天候が続いた上に撤退の詔勅が降りたことで引き返してきた。
その後、公孫淵は呉の臣・燕王と称して自立するや、後戻りできない手を次々と打った。鮮卑や句麗を誘って反撃態勢を整え、ついで臆面もなく孫権のもとに使者を遣って救援まで要請したのだ。
Dこの年の十月、明帝は洛陽の南に円丘を築き、ついで十二月冬至の日に初めて郊祭をとり行った。明くる年(二三八年)の正月早々に、司馬宣王に兵四万を授けて公孫淵討伐を下命すると同時に、その計略を問うた。そのとき、司馬宣王はこう返答した。
「公孫淵にとっては、城を捨てて逃げるのが最善策です。遼水を拠り所にして抗戦するは、次善策です。襄平を守って防戦するなら、生け捕りになるだけです」
「では、敵はどのように出てくるのか」と明帝は言った。司馬宣王は答えた。
「城を捨て去るなど、公孫淵の考え及ぶところではありません。敵が先手を打つ形で遼水を防御し、その後は襄平城にこもって守りを固め、ついで対決して来るよう仕向けてみせます。とにもかくにも、遠征する側は、敵を取り逃がして持久戦に持ち込まれるのを不可と心得ます」
明帝は、「往復に何日かかるか」と問うた。司馬宣王は答えた。
「往きに百日、攻撃に百日、戻りに百日、六十日を休息に当てます。さすれば、一年で足ります」
司馬宣王率いる陸軍は、長雨のために六月に入って漸く遼東にたどり着いた。八月下旬、遼水沿いに展開する敵を破って襄平城を包囲し、九月十日に城を抜け出て逃げ走ろうとした公孫淵を討った。
この間、帯方郡をめざした海軍は、作戦通り行動できたはずだ。句麗も兵数千を出して、魏軍の作戦を陰ながら助けていた。
☆この作戦の一端が『魏志』「韓伝」・「高句麗伝」に散在してある。
「景初元年 (二三七年)七月、魏は渤海近くの青洲など四州に詔勅し、大々的に海船を造らせた」
「景初中に、魏は密かに楽浪太守劉マと帯方太守鮮于嗣を海路で派遣し、両郡を支配下に収めた」
「景初二年、司馬宣王が軍勢を率いて公孫淵を討った際、句麗王位宮は兵数千を出して力添えさせた」


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